オレ部

社会人4年目の雑記ブログです。

【大学受験】現役東大に落ち理系が1年宅浪して京大に合格した話

大学受験。これから控えているという人や、もう終わったという人、そんなもん知らないという人さまざまだと思います。

人生における重要な分岐点としてとらえられることが多い大学受験ですが、僕は少々特殊な大学受験の遍歴をもっています。

というのも、東京大学京都大学の両方を受験したことがあります。

東京大学京都大学を受験した、というのだけでも珍しいですが、それだけでなく、予備校に行かず自宅を中心に勉強する、いわゆる宅浪でした。

 

予備校によって宣伝の為に合格体験記を半ば強引に書かされる予備校生と比べて、宅浪の合格体験の話は予備校に所属していない故に、世に出る宅浪経験者の受験報告はとても少ないです。

僕自身、浪人中は予備校のようにノウハウを得る場所が限られていて、モチベーションの維持に苦労した時期もありました。

そんな時、ネットで当時の自分と同じ東大京大志望の宅浪の方がやっていたブログなどを読んで勉強方法などを参考にさせていただいていました。

なので、次は自分がサンプルを提供する番だ!ということで、今回、初めて合格体験記を書いてみようと思います。

 

宅浪で第一志望を目指そうという人、京都大学東京大学レベルの最上位国公立大を目指そうという人には多少役立つかも知れません。

 

また今回は、どんな参考書を使えばいい!とかではなく感情的な揺れ動きを中心に記します。ある種自分の中で一つの区切りをつけるという意味でも書こうと思うので、かなり雑な文章になると思います。

よろしければ、お付き合いよろしくお願いします。

小学生時代、転校、中学受験

小学校5年の秋に広島県から三重県に引っ越し、それに伴い転校しました。

小学校の高学年というのは多感な時期です。広島の仲の良い友人らと別れて全く知らない地である三重に移ってゼロから人間関係を築かなくてはならない。

当時の僕にとってはとても受けれ難い現実でした。

広島にいた頃はキャンプの実行委員になったりクラス委員になったりリーダーシップを発揮する方でした。三重に移ってからは暖かく歓迎してくれる友人もいましたが、広島弁を小馬鹿にされたりすることもあり、すっかり内気な少年になってしまいました。

小学校では図書室が一番居心地がいい場所でした。「解決ゾロリ」シリーズ、「ズッコケ三人組」シリーズや学習用の漫画を読み漁りました。特に好きだったのはNHKの名番組、プロジェクトXの漫画です。

 

当時から勉強は好きでした。

勉強が好きと一口にいうと、「ガリ勉か!」となりますが、学ぶことによって自分の知の領域が広がり、新たな楽しみに触れることが出来る喜びは何物にも代えがたいです。

さて、そんな中、家も近く仲の良かった友人が中学受験指導塾に通っていて、僕を誘ってくれました。

塾での勉強内容は小学校で教えられることよりも圧倒的に量が多く、とてもワクワクするものでした。周りよりも進んだ勉強をしているという優越感、勉強出来たら周りに褒められる。僕は勉強に「ハマり」ました。

両親は共に公立中学出身で、もともと中学受験には否定的でしたが、塾に通い始めてから、三重に引っ越して以来内気だった僕がイキイキしだした様子を見て、中学受験をサポートしてくれました。

当時は塾の用意してくれたプランに従順にしたがって勉強していました。主体的ではなく受動的な勉強、とでも言いましょうか。与えられたテキストを淡々と吸収していくカンジ。

中学受験に無縁な人からみると、小学生が嫌々勉強をさせられているようにも見えるのかもしれませんが、僕の場合はそうではなく、むしろ友人らと点数を競い合って楽しく勉強していました。

結果、難なく第一志望の中学に合格できました(僕の中で美化されているだけで当時は余裕がなかったかもしれませんが)。

中学3年間

県内では進学実績で有名な中高一貫6年制の私立校に通っていました。入学当初は周りの生徒のレベルも高く学校生活に慣れるのに必死でした。

しかし6年制あるあるだと思いますが、高校受験は無く、中学2年から高校1年にかけてはかなり中だるみしていました。漫画を読みふけったり、ゲームを夜更かししてしたり。今思い出すと、この時期はかなりもったいなかったですね。

6年制ということで、高校3年生の先輩の進学実績なんかも中学生ら下級生の耳に入ってきたりはしましたが、中学生の頃は先輩方の合格していく大学は雲の上の存在だと思っていました。

大学との距離感、すなわちどの大学に合格するにはどれほどの学力が必要か、といった情報を全然知らなかったのです。それで、漠然と生まれ故郷の国立大学、広島大学に合格出来たら御の字だろうと。このころは東大京大を目指すレベルにまで到達するとは思ってもいませんでした。

今になって思うのは、せっかくの6年制なんだから中学のうちから色んな大学や、大学進学以外の選択肢も提示したほうが生徒の為になるのではないかということです。

どんな大学や就職先などでも、「雲の上の存在ではない」と気づかせることが、教員の方々にとっては非常に大事なのではないでしょうか。

 

また、中学の時は3年間ずっと帰宅部でした。1年の最初は野球部に入ろうかと思っていましたが馴染めずに辞めました。勉強もろくにせず、学年での順位はひどい時で200人中130番くらいでした。

ただ、友達と競い合うことで中3の時には200人中50番くらいにまでジャンプアップできました。中学受験のときと同様、やはり競争は大事です。

ちなみに塾には小学校以来、中学高校と通いませんでした。この6年間、塾に通わずに自分で計画を立てて勉強する「習慣」があったからこそ宅浪も可能だったような気がします。

高校1年

中学時代に仲良くなった友人の誘いもあり、両親から口うるさく何か部活に入れと言われていたこともあり、自分自身何か変わらなきゃいけないと思っていたのもあり、

陸上部に入って長距離を始めました。これが僕のこれまでの人生における大きな転機になりました(まだ数年前の話だけど)。

部活では、健全な体作りだけでなく、自分の心を律する術を学びました。特に長距離という忍耐が要る競技でしたので、相手に不快感を与えない振る舞いとかは身につきました。

あとなんていってもご飯がおいしく食べられるようになったのが大きかったです。「いただきます」「ごちそうさま」ほど生を実感する瞬間は無いです。

勉強面

部活を始めると勉強をする時間が減ると思われがち。たしかに週6で2~3時間の部活動、時間は取られます。しかし、逆に部活に縛られることで、一日のうち勉強に残された時間がはっきりし、「緊張感」をもって勉強に取組めていました。

6時に起きて登校までに予習をして、授業は多少うたた寝しながら受けて、部活で身体を動かす体を動かし、通学の時間は単語を覚え、帰宅し夕食入浴を済ませ宿題をこなし12時に寝る。生活に「メリハリ」が出来、成績も徐々に上向いてきました。

なので、部活動をやっている生徒の成績が少し振るわないからといって部活動が原因だと「決めつけ」て部活を辞めさせるのは、極めてナンセンスだと思います(部活が原因という人も中には居るかもしれませんが)。

高1の時はまだ東大に特化した勉強はしていませんでした。ただ、英単語などをこつこつやり授業も真面目について行っていたので、受験における下地、基礎体力は徐々に身についてきていました。

高校2年

貧血などであまり走れない時期があり、その時期に競歩を始めました。最近急激に競技レベルが上がりつつある競歩ですが、当時は完歩(失格にならずに歩ききること)さえできれば県内では入賞が狙えるチャンスがありました

「俺でも入賞狙えるんじゃね?」という下心丸出しで競歩に専念することにしました。あと人生初の彼女が出来たりしてかなり調子に乗っていました。ただ、デリカシーが無さ過ぎてそんなに長続きしませんでした。

勉強面

中高一貫の強み、高校2年までに数学と英語は大方高校の範囲が全て終わり、理科に関しても恐らく公立高校より早い進度だったはずです。まだまだ本格的には東大対策はやっておらず、東大受験生の間では有名な英単語帳、「鉄壁」を買って覚え始めました。

hiroacademia.jpn.com

ここで、僕が高校時代に東京大学を志望した理由を述べておきます。

一番の理由は、日本一の大学を目指そうと思ったからです。大学に行ってやりたいことがまだはっきり決まっておらず、入学後に先行する分野・学科を選べる進路振り分け制度を東京大学が採用していたのも当時は魅力的に思えました。

ただ、実際に東京大学に入学した先輩や友人の話を聞いていると、そうそううまく自分の第一に志望する学部学科に進めるというわけではなく、大学での成績をもとに進路の可否を決める故に、大学に入ってからも受験勉強のようなハードな勉強をしなくてはならないという面もあります。

また、大学入学後にそれは同じ陸上部の長距離パートに、京都大学を志望する友人がいたのも大きかったです。

彼はすこぶる勉強ができる奴で、それだけじゃなくて彼も高校から陸上を始めたのに足も速くて、僕は勝手にライバル視していました。彼が京大を目指すなら、俺は東大だ!とひとりで盛り上がっていました(ひとりで盛り上がるのは今でもよくやります)。

高校3年

6月までは部活をやっていました。最後のインターハイ予選の県大会で入賞出来て、賞状を貰うことができました。

全国大会に進むことは叶いませんでしたが、「俺でも入賞狙えるんじゃね?」という下心で始めて、その目標をクリアできたわけです。

本当に陸上部に入って良かったと、つくづく思いました。

部活を辞めてからは勉強中心の日々が始まるわけですが、運動しなくなり食事量は変わらなかったため、高校卒業ごろには体重が10キロほど増えてしまいました。

勉強面

部活を引退し、いよいよ勝負の時間。引退直後東進の東大レベル模試を受験しました。結果はE判定。440点満点のうち、130点にも満たない点数でした。

ただ、東京大学の入試問題はそれ相応に難しいので、半分一寸とることが出来れば十分に合格が狙えます。また、部活を辞めて勉強に本格的に打ち込めばまだまだ伸びると信じて、それほど落ち込むことはありませんでした。

僕は予備校に行っていなかったので、基本的に高校、自宅、近所の図書館で勉強していました。勉強を進めるにつれて、各場所でやる勉強方法のすみわけが出来てきました。

高校や図書館ではまとまった時間をとって問題演習、自宅では声に出しながら暗記系、といったように。浪人時代は高校という選択肢が無くなって図書館メインになるわけですが、当時は気分転換や休日の日に利用する程度でした。

そうこうしているうちに夏休みがやってきました。

現役生にとっては、夏休みが受験の総本山などと言われることもありますが、僕はとりあえず量をこなさなくては!と思い、40日弱の夏休みで500時間勉強することを目標に設定しました。ストップウォッチで勉強時間を一日ごとに計り、それを合計していきました。

時間をかければその時間に比例して点数が伸びるわけでは決してありません。

ただ、「机に向かうんだ」という意識を常に保つのには役立ちました。

このころはまだ東大の過去問などには手を出さず、発展的な問題を解くためには必要不可欠な受験の基礎特体力を増強することを意識して勉強していました。

英数はもちろん、特に、まだ高校の範囲も少し残っていて完成度が低かった理科、物理と化学の基礎をしっかり身につけるように努めました。物理化学は勉強の成果が如実に模試などであらわれるので、勉強のモチベも高かったです。

国語はと言いますと、現代文に関しては知らない漢字が出てきたら覚える程度で特に対策を取らず、古典漢文の構文や単語などを覚えるように努めていました。

最終日に時間が少々足りず3時ぐらいまで無茶して机に向かったことを鮮明に覚えています。結果的にリスニングを聞いてる時間も勉強中や!とかいろいろ設定を緩めましたがなんとか達成できました。

 

余談ですが、夏休み終わりには、勉強のモチベーションにもなっていた、当時ハマっていて今でもよく聴くB'zのライブに名古屋まで行きました。詳しいことを言うと、B'z LIVE-GYM Pleasure 2013 ENDLESS SUMMERの名古屋ドーム公演初日ですね。このライブが僕の人生初ライブでした。

当時東大合格ラインまでぎりぎりのところだなーもっと成績あげてくぞー!と意気込んでよくB’zの「ギリギリchop」を聴いていましたが、実際にライブで生で聴けてとても感動しました。

3時に寝て3時間ほどで起きて学校に向かい、午前中だけの始業式やら授業やらを受けてから大急ぎで名古屋に向かい、物販でTシャツやらタオルやらを買って、ライブ本番では叫びまくって盛り上がって、くたくたで終電間際の列車で帰り、興奮冷めやらずなかなか寝付けず。

その次の日は恐らく高校で唯一遅刻した日だと思います。あまり褒められた話ではありませんね。

 

いまでも当時の記憶は鮮明に思い出されます。夏休み終わりにちょうどいいタイミングで息抜きができたと思うし、当時もそう思ってすぐに勉強モードに戻ろうとしたはずです。

何か自分でご褒美を用意しておいてモチベをあげるのは今でも有効でよく実践しています。オススメです。

 

ですが、ここで予想外のハプニングが起こります。そう、「カープが大躍進」したのです(カープのことなんか知るかという人は読み飛ばしてください)。

僕は広島生まれということもあり、もともとカープファン、三重にきてからは中日ファン巨人ファンに囲まれ周りにカープファンなどほとんどおらず(高校には奇跡的に1人いました、彼とは今でも現地観戦したり仲良くしています) 、反骨精神でより一層カープを応援するようになりました。

2016年、カープは25年ぶりにセ・リーグを制し沸きに沸きましたが、2013年当時、カープは1997年以降Aクラスから遠ざかっていて、Aクラス入りは優勝並みに待ち焦がれていたことでした。

日ごろから毎日の試合結果を新聞で確認するというルーティーンは実家にいた頃は昔から常にありましたが、次第に3位以上、Aクラス以上が現実味を帯びてくると、テレビでカープ戦がやっていたら野球中継もがっつり見るようになってしまいました。

カープのAクラス入りが確定した試合は9月25日のナゴヤドームでの中日戦で、東海エリアでは地上波で放送されていました。当時在籍していた先発のバリントンが0を並べ、エルドレッドが浅尾から決勝の2ランホームラン。あの時は画面越しに泣いてました。恐らく母親は「こいつほんまに受験生か?」と冷ややかな目でみていたんだろうと思います。

そしてクライマックスシリーズの試合もすべてテレビ前に張り付いて観ていました。

阪神とのCS1stステージ2試合、巨人とのCS2ndステージ3試合、計5試合をがっつりテレビ前で観た記憶があります。1試合3時間くらいはあるわけですから、かなりの時間をカープに割いていたことになります。

端的に申し上げて、新聞上で試合結果を確認する程度に留めておくべきでした。優先順位はハッキリしているのに、甘えてしまいましたね。

 

この段階で、すでにこいつ東大に受かるのか?感が徐々に漂ってきたかと思いますが、今だから分かる当時の最大の不合格の原因があります。

 

それは、大学受験よりも知的好奇心を満たしたいという衝動が勝ってしまったことです。それほど勉強の進度にゆとりがないにも関わらず、背を伸ばして高校以上のレベルの学問に手を出してしまいました。合格へとまっすぐに続く道から少しそれてしまったんですね。

具体的な参考書を挙げると、「月刊大学への数学」「原点からの化学」「新・物理入門」などです。これらの参考書は、とてもハイレベルな内容を扱っていて、それぞれ数学・化学・物理の本質に迫ることが出来ます。

もう合格への道筋が見えているというか、ある程度勉強の進度に余裕がある人が手を出すような参考書だったと今では思います。これら3シリーズは読み物系の参考書で、これらをやる代わりに、もっと問題演習をガンガンやるべきだったと思います。

とはいいつつも、カープがCSで敗退してからは勉強にのめりこみ、たまに東大の過去問を解いてモチベを高めながら勉強していました。

11月の東大レベル模試では駿台河合塾のものを受けましたが、どちらもC判定とかで、まだまだ合格ラインには届かないものの、もうちょっと伸ばせばいけるんじゃないか?と手ごたえはありました。

12月半ばになると、センター試験対策の勉強を始めました。ただ、

東京大学の入試における配点
センター試験110点 二次の筆記試験440点

と、センター試験と二次試験の点数の割合は1対4となっていて、センター試験の比率はそれ程大きくありません。なので、センター試験でこけるわけにはいかない!と死に物狂いになるわけではなく、淡々と対策をしていました。

ただ、世界史に時間を割きすぎました。もともと着実に勉強していたので安定して90点以上取れるだけの力があったにも関わらず、100点をとることに拘り過ぎてしまいましたね。まあこれは自分の美学を追い求めた結果ですかね。。非合理的ですが。

さて、センター試験本番、初日の国語以外はかなり順当にできました。自己採点は1日目に世界史だけ気になってしてしまいました。95点と100点は取れませんでしたが破綻はしていなかったので落ち着いて2日目を迎えることが出来ました。

ただ、1日目終了時に自己採点をすることはあまりお勧めしません。やらかしてしまっていたら気が気じゃないと思います。

2日間のセンター試験が終わり、自己採点をしてみると、国語が100点ちょっとと大きく躓いてしまい5教科7科目合計で900点満点中の775点でした。つまり得点率約86%。東京大学を受験する一つの目安が90%。

二次試験の配点が大きい東京大学、志望を変える気などさらさらなく、前期日程は東京大学理科Ⅱ類(農学部・薬学部相当、進路振り分け制度により他学部への進学も可能っちゃ可能)に出願しました。

ただ、僕はとりあえず東京大学に入りたかったので、理科Ⅰ類に出願するか理科Ⅱ類にするかすこし考えました。なぜならⅠ類とⅡ類では合格最低点が毎年拮抗しているからです。僕の受験した年は結局理科Ⅰ類の最低点の方が低かったですが。

国公立の中期試験は出願せず、後期試験では広島大学の理学部化学科に出願しました。後期試験が実質すべり止めになり得ると考えていたので、私立大学には一切出願しませんでした。今思えばかなりギャンブルめいたことをしています。

終わってしまったものはしょうがないということですぐに二次試験の勉強にうつりました。

センター試験から国公立前期の二次試験までは約40日間あります。この間はひたすら東京大学の入試の過去問題を解き続けました。

 東京大学の二次試験は、2月の25日と26日の二日続けてありました。僕は24日に移動して会場を下見して試験に備えました。

試験の手ごたえはあまりよくなく、あーこれはもしかしてもしかするかもだなぁと、人がめちゃくちゃ多い東京に圧倒されてそそくさと新幹線にのって三重に帰りました。

本来ならばここから後期試験の対策を開始すべきでしたが、当時の僕は完全に後期試験を舐めきっていたので、すべり止めの私大に受かっている友人らと遊びほうけていました。違う境遇なのに同じように遊んでいる場合ではないだろ!おい!って感じです。

広島大学理学部化学科の後期試験の配点(当時)
センター試験600点(内訳:数学200点・化学200点・物理200点)
二次試験400点(化学だけで400点)

と極めて極端なもので、センター試験分で95%以上稼げていて、A判定も出ていて、二次試験の過去問もそれほど難しくなかったので、完全に舐めていました。

ただ、後期試験の怖いところは、前期試験でレベルが高い大学を不合格だった人が流れてきて受験するので、受験者のレベルが非常に高いのです。

センターリサーチでA判定が出たくらいでは安心はできないのです。また、前期試験で大勢新入生をとって後期試験では10人程度しかとらないなんてこともざらですので、当然受かりにくくなります。

結局、試験本番でも思っていたよりできなくて、「お?これはもしかしてもしかしてルートでは?」と帰りの新幹線でにわかに焦りだしました。進学先がないというのは結構ふわふわします。

そんで、結局不合格でした。親にはあきれられました。

高校3年・受験結果
国公立・前期 東京大学理科Ⅱ類 不合格
国公立・後期 広島大学理学部化学科 不合格

無念、全落ちしてしまいました。ありゃりゃのりゃ。今でこそ笑えますが、当時は気が気じゃなかったですね。行くところが無いわけですから。

部活の顧問の先生にもう一年頑張るとういう旨を伝えにいった帰り道に、夜空を見上げたら東大にフラれた実感が急に湧いてきて、ぼろぼろ泣いてしまいました。

あと、東京大学の二次試験では希望すれば試験の点数を開示してもらうことができます。僕は開示の希望を出していなかったので、何点差で落ちたのかわかりませんでした。

このとき開示を請求していてめちゃくちゃ惜しかったりしたら東大を2年連続でうけてたかもしれなかったですね。

全落ちして宅浪

どこにも合格していないので、行き先がありません。我が家の教育方針は「大学までは出ろ」ということらしく、贅沢なことに浪人させていただけることになりました。

合格発表が全て終わり全落ちが確定したのもつかの間、すぐ次の動きに移らなくてはなりません。そう、予備校選びです。

模試で高校経由でわたくしが提供した個人情報によって家には予備校の案内が駿台河合塾から届きました。とりあえず名古屋まで行って駿台河合塾代々木ゼミナールの説明会には参加しました。

ただ、どうも予備校と言うのは閉鎖的な空間であまり魅力的に感じませんでした。なんでこんな遠いとこまで通って高いお金払って授業受けなあかんねんと。

先人の残した過去の良書と真摯に向き合うのが勉強のあるべき姿なんちゃうかと。

ちなみに僕が行った予備校の説明会は駿台が一番マシでした。河合塾代々木ゼミナールは「ここに通っても本当に力つくのか?」と不安になるほどでした。

ただ、やはり組織に所属した方が安心感があるとの理由で、両親は予備校に入るよう説得してくれました。ただ、僕の意見としては

1、これまでも塾に行かずに勉強してきたし独学でも勉強して合格を掴み取れる
2、最寄りの予備校が電車を使って1時間半かかるし無駄が多い
3、予備校代は高すぎる(夏期・冬期講習代などを含めると100万円前後)

などの理由から宅浪を選択したいと言って譲りませんでした。周りが大勢選ぶ選択肢は選びたくないというのも理由の一つでしたが、一番の理由は親に金銭的に負担をこれ以上かけたくないというものでした。

どうやって浪人するかの話し合いはかなり時間をかけて行われました。僕は高校3年生の時どうして東大に合格できなかったのか、宅浪の1年をどうやって過ごせば第一志望に合格できるかを徹底的に考え、そのプランを両親に力説しました。このとき各科目についてしっかり取り組み方を考えておいたのは後々役に立ちました。

当時は東大にフラれたショックをまだ引きずっていたので、単純に日本の2番目の大学扱いされがちな京都大学に志望をとりあえず変えました。学部学科は未定でした。

結局、「圧倒的な実力を示したら志望校を受験させてあげる、無謀な受験はさせない」という条件で宅浪させてもらえることになりました。

条件をもっとかみ砕いて言うと、「模試でずっとA判定出せるくらいの力があるなら受けさせてあげる」ということです。

他にもいくつか両親との間に決め事を設けました。

1、家事の手伝いをする(風呂の掃除や犬の散歩)

2、晩御飯が何か聞かない(僕が執拗に晩御飯の献立を母親に聞くようになり母親がストレスを感じるようになったから)

3、模試はちゃんと受ける

4、教材を買うときはそのテキストの使い方を説明する

5、リビングに居座らない

6、カープに溺れない

これら以外にも自分との約束で

1、毎日勉強する(勉強しない日を設けない)

2、筋トレする

3、タブレットをいじり過ぎない

4、絶対第一志望に合格する

などを決めました。覚えている範囲ですが(結局筋トレは長続きしませんでしたが大学入学後にハマりました)。

 

宅浪時代にどこで勉強していたかと言うと、図書館と自宅です。図書館では顔なじみの社会人の方が出来たりして結構通うのは楽しかったです。

さらに、図書館で勉強するときは気分転換にたくさん本を読みました。ここで色んな分野の本を読む中で、自分が大学に進んでやりたいことがはっきりしてきました。

家の近くに図書館があって本当に良かったです。1年で100冊弱の本を読みました。このときに読んだ本が今の自分の思考回路の源流になっているような気さえします。

あと、8月には河合塾主催の京大オープン模試を京都大学で受験しました。そのとき京都の市街地の中心を流れる鴨川沿いを散策して、その雰囲気に心奪われました。この町に住んでみたい、と思いました。このころに正式に自分の中で第一志望が京大になりました。

 勉強の進め方は、基本的に高校の頃と同じ教材を使い習熟度を高めていきました。

物理や化学はたくさん問題を解くために新しい問題集を追加で買いました。

数学はチャート式を改めて体に染み込ませてできない分野を無くしました。

英語は単語やリスニングの時間を休憩時間に入れて英語に触れる時間を減らさないように努めました。

国語は、、あまり対策はしませんでした。強いて言うなら古文の単語。二次試験対策ではストレスをためないようにとにかく空欄を埋める練習をしました。

世界史は現役の時にやり過ぎたので、センター型式の模試の直前に復習する程度でした。センター直前には再度詰め込みました。

また、月に2年分ほど京都大学の二次試験の過去問を、時間を本番と同じ設定で解くようにして、目標との距離感を計るようにしていました。自分流で自己採点もして。このおかげで極端にやる気がなくなる時期というのはありませんでした。

あと、結構遊びました。読書もそうだし、近所の川で魚やカワエビを捕まえたりして飼っていました。あとアニメにもハマりました。

模試も楽しみなイベントの一つでした。成績が落ちたらどうしよう、といつも苦しい気持ちにもなっていましたが、模試の会場にいくと同じく宅浪の高校同期の友人に会えて終わり際に一緒に晩御飯を食べたりしていました。友人との時間は本当に気分転換になりました。

宅浪していて予備校いいなと思ったのは、友達が新しくできそうなところです。宅浪だと基本的に新しい知り合いなんてのは図書館の司書さんくらいしかできなかったので、11月ごろになると本格的に予備校がうらやましくなりました。

2回目のセンター試験

現役の時は国語でやらかしてしまいましたが、2回目はもはや国語にはもともと全然期待していませんでした。200点中の120点あればいいやというくらいの気持ちで受けました。900点中の822点京都大学農学部の配点だと350点中の315点でした。センターリサーチでもA判定がでて、自信をもって出願!

とはいかず、京都大学農学部か工学部か、どちらにするかで締め切りギリギリまで迷いました。センターと二次試験の配点の比率が若干違ったりどの分野を自分が本当にやりたいか、等で葛藤しました。

京都大学農学部の配点
センター350点 二次試験700点
京都大学工学部の配点
センター200点 二次試験800点

結局、「農学部の方が女子が多い」という噂が決め手になって農学部に出願しました(実際多かったです)。

 

2回目の二次試験、今回はもう過去問もほとんど解きつくしていたので、過去に解けなかった問題や苦手な分野など、復習を徹底的にやりました。

模試で成績上位になると、模試の成績と一緒に帰ってくる冊子に名前が掲載される場合があります。僕は8月と11月にある京大レベル模試、合計4回すべてでA判定が出ていて、なおかつ冊子に成績上位者として名前が載ったこともあり、二次試験には圧倒的な自信がありました。とにかくやらかさないようにさえすれば受かる、と。

ただ二次試験本番は色々やらかしてしまいました。お腹の調子が悪くて一番最初の国語の試験開始直後にトイレに駆け込んで10分ロスしたり、英語でとんでもない勘違いをしたまま和訳してしまったり。

2日目の試験が終わってから、さあ帰ろうというときに各予備校が解答速報を配っていて、ついつい見てしまいました。英語やらかしとるやないかーい。

でも今回は高3の時とは違ってちゃんと中期試験に備えて勉強しました。中期試験の会場では同じく京都大学を受験した高校同期とも久しぶりに再開し、ちょっと気持ちが和みました。

 その中期試験の2日後、京都大学の合格発表。京大にはいかずネットで合否を確認しました。アクセスが集中していて12時から5分ほど遅れて自分の受験番号をみつけました。

「うわああああああああやったああああああああああ」

勢いあまってそばにいた妹に抱き着いてしまいました。そのあと、最初に母親に電話して、父親にメールして、高校にも挨拶行かなきゃなあと合格の余韻に浸っていたら、先制パンチ、高校から合否を確認する電話がかかってきました。一気に興ざめして冷静になりました。

そんなこんなで

宅浪時代・受験結果
国公立前期 京都大学農学部 合格
公立中期  大阪府立大学工学域 結果出ず
国公立後期 広島大学工学部 不受験
私立大 同志社大学理工学部(センター利用) 合格
    立命館大学理工学部(センター利用) 合格

 無事、進学先確保。これにて大学受験、終了。

この体験談を書いていて、かなりわがまま言ってるなあと、改めて思いました。長々と書きましたが、それでも言葉にできない色々な感情も思い起こされました。

宅浪というのは勇気がいる決断だと思いますが、自分で考えて行動に移すことを継続できたら、得られるものは大きいです。僕自身、自分で考え続けることを今後も絶やさず続けていきます。

ここまで、読んで下さった方、ありがとうございました。

twitter.com